2011年2月3日木曜日

「節制」と「摂生」

今日は節分です。季節は生きとし生けるものに成長を促します。古来より日本人は、その節目を大切にしてきました。節分…この日によって「1年の魂の進むべき方向が決まる」それくらい特別な日が今日なのです。

節分の「節」という字は、日常の要所に登場します。節約、節度、節操、節制など数多くあります。そしていずれも「自制を促す」印象を持ちます。調べ てみますと「せっせい」には2つの記し方があり、意味も違うと説かれています。節制と摂生…しかしその根本は同じようで、節制は心身の前(行動)、摂生は 心身の後(養生)を指すようです。
先日、我がラジオ『拝、ボーズ!!』でも話題になった「どうやったら朝早起きができるようになりますか?私は、季節にかかわらず、目覚ましが鳴ってもなかなかふとんから出られません」というご質問。元々は私のツイッター[koyu_a]で問われたものでした。この手の質問は多く寄せられます。
答えは簡単なことで「早く眠ればいい」だけのこと。暴飲暴食に注意して深酒もしない。仕事を日中に片づけて夜は早く寝る。それだけで早朝、サッと眼 は覚めます。こう答えると多くの方が「そんな環境にない」と自身の特殊な立場を強調なされますが「ならばその環境を作りなさい」ってことです。多忙や残業 が立派ではなく、身体をしっかり休めることが立派である。深夜ダラダラ働くより、すっきり目覚めてパッと動き出すほうが立派である。そう肝に銘じて生活す ればよいのです。甘えを抑制すること…これが「節制」。

逆に心身をぶっ壊してから気付き、慌てて急ブレーキをかけることが「摂生」。節制が足下のブレーキであるなら、摂生はサイドブレーキでしょう。どち らを多用するかは個人の自由ですが、ひたすらにアクセル全開で無駄なエネルギーを使い、ブレーキだけに頼ると全てにおいて消耗は早くなってしまいます。こ の「摂生」を衣食住の全てに置き換えて「摂生」しなくても良いような生活を送ること…これが精進です。

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仏教における戒律を専門用語の羅列で難しく考える人がいますが、我が師は「戒律とは心身の習慣づけ」だと説きました。幼き時から「やっちゃいけない」をキチンと教え込む。「なぜ?」が素直に訊ける時期にしっかり教え込む。これで、人ではなく仏の道を歩む準備が整うのだと。

「節制」と「摂生」を想う時、師を思い出します。「出来ないのは心構え、準備が整っていないからだ」「何とかなる…で何とかなった者はおらぬ」常に穏やかな口調で、とつとつと教えてくれたものです。

ある時、若者から「生きるとはどういうことですか?」と問われ「そんなこたぁ知らんよ。人生はアンタが車を運転するようなもんじゃろ? そんなもん 仏さんに問いなさんな。仏さんはその道しるべを下さるんじゃ。答えじゃない、ヒントを下さるんじゃ。その標識を見落とすのは勝手じゃからな」と笑ってた。

今日はそんな師の命日でもあります。私にとって「節制」を誓う日でもあります。